「もっと日本語を勉強して」と言われる前に知ってほしいこと〜ろう者の第二言語である日本語について〜

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AIのない20年前、私の前に立ちはだかった「言葉の壁」

まず、私自身について紹介させてください。私は生まれつき、まったく耳が聞こえません。
日本語を耳で聞いて覚えることはできないため、子どもの頃はキューサインや文字などで、視覚的に日本語をインプットしてきました。

今から20年前、私が新卒で企業に就職したばかりの頃の話ですが、
当時はまだ、今のように便利なAIなんて影も形もない時代。
20年後にこれほど便利なテクノロジーが登場するなんて、当時は誰もが全く想像しなかったと思います。

大学時代まではレポートを書く機会が多かったものの、自分の「日本語」について、ここまで深く意識することはありませんでした。しかし、社会に出た瞬間、状況は一変します。
毎日のように飛び交う社内外へのメール、報告書、資料の作成。社内向けと社外向けでは、文章の使い方も言葉遣いもまったく違います。上司や取引先に自分の考えを正確に伝えるためには、当たり前ですが「日本語力」が絶対に欠かせませんでした。

頼れるAIがいない当時、私がしたことはシンプルです。ネットの辞書や例文サイトを何度も何度も調べ、文章を組み立てては「これで大丈夫でしょうか」と周囲に確認してもらう日々でした。
特に苦労したのが、定期的に提出するコミュニケーションシート(業務成果の報告書)でした。何度書いても、上司からは「書き直し」の指示。当時、痛感した日本語の難しさともどかしさは、今でも鮮明に覚えています。

「苦労した土台」があるからこそ、今がある

今は、本当に恵まれた時代になりました。 少し工夫してプロンプトを打つだけで、AIが自然な文章の選択肢をいくつも提示してくれます。その表現を見ているだけで、「なるほど、こういう言い回しがあるのか」と勉強になることも多く、時代の進化をありがたく感じています。
もちろん、AIに丸投げする危うさは忘れてはいけません。

ですが、あの頃に必死に苦労して身につけた土台があるからこそ、AIに依存しすぎることなく、自分自身の日本語力が年齢を重ねるごとに少しずつ上がっているのを実感しています。「あのとき、逃げずにやってよかった」と、今は思うのです。そして、その土台があるからこそ、今こうしてブログでの情報発信も楽しむことができています。自分が発信する日本語力は、やっぱり、ないよりはあったほうがいいと思っています。それは間違いありません。

外側の人間が「もっと勉強しろ」とジャッジする権利はない

ただ、ここでろう者である自分自身の本音を、結論から先に書かせてください。

「ろう者は、生涯にわたって日本語を学び続けている」ということ。
そして、「日本語がなければ、この社会で生きていくことは難しい」という事実と現実を、私たち自身が誰よりも、痛いほど理解しているということです。きっと、同じ思いを抱えているろう者は多いはずです。

そこに、外側の人間が「もっと日本語を勉強するべきだ」とジャッジする権利はありません。
わざわざ他人に言われなくとも、その必要性は自分たちが一番よく分かっているのです。
私自身、今でも日本語の勉強の真っ最中です。たまたま活字を読むことが好きで、ほぼ毎日いろんなジャンルの本を読みますし、キコニワで記事を書く時間は楽しいです。

それでも、日本語は永遠に難しい。小学生なら誰でも知っているような単語を自分が知らなかったり、今でも意味の分からない言葉や表現に出会ったりします。日本語に対する苦手意識が、完全に消え去ることはありません。

圧倒的な情報格差の正体

なぜなら、聴者の多くは音声日本語を「母語」として育つからです。 家族との会話、学校での雑談、テレビやラジオ、街中に流れるアナウンス。音声日本語が大前提の世の中です。24時間、いつでも日本語が耳から自然に流れ込んでくる環境です。特別に「勉強しよう」と机に向かわなくても、生活しているだけで自然と言葉に触れ、語彙や表現がアップデートされていきます。
しかし、ろう者は違います。 情報は「自然に降ってくるもの」ではなく、自分の目で探し、自分から掴み取りに行かなければならないものなのです。大人からしっかり教わったり、何かのきっかけがあったりしなければ、身につきません。本、ニュース、字幕、インターネットなど、意識のアンテナを常に張り続け、情報を集め続けています。

それでも、聴者との間にある「情報格差」を、個人の努力だけで完全に埋めることは極めて困難だと思った方が良いかもしれません。これは、ろう者が努力を怠っているからではありません。日本語を学ぼうとしていないからでもありません。そもそも、日常生活の中で自然に触れる「情報量」の分母が、根本から違うのです。
だからこそ私は、ろう者にとって、日本語は「第二言語」なのだと考えています。

必要なのは批判ではなく、ほんの少しの想像力

それにもかかわらず、世間にはろう者の日本語に対して、「もっと日本語を勉強すべきだ」「努力が足りないのではないか」と、悪気なく批判の声を向ける人が少なくありません。
ですが、少しだけ考えてみてほしいのです。この社会で生きていくために日本語が不可欠だからこそ、私たちは学生時代だけでなく、社会人になってからも、一生涯にわたって日本語を学び続けています。
「もっと勉強して」という一言は、私たちが日々重ねている目に見えない努力や、言語の壁に向き合う葛藤を、少し置き去りにしてしまっているように感じます。

私たちが求めているのは、ジャッジされることではありません。「言語のスタートラインがそもそも違う」という背景への、ほんの少しの理解と想像力なのです。

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