難聴フットサル選手の風吹です。
この記事では実家に帰省した際に母にインタビューした動画をキコニワ記事のために、文字起こししました。自分の生い立ち、親ならではの視点、当時の心情などについて言葉にしてもらいました。
聴覚障害のある親御さんは、お子さんをどういう風に子育てしていったらよいのか、悩まれるかと思います。この記事が少しでもヒントになることと思い執筆に至りました。
昔は新生児聴覚スクリーニング検査がなかった。
自分に難聴があると分かったのはいつのこと?
難聴があると分かったのは、2歳の時。1歳児半検診に連れて行った時に、まだ言葉が発することができなかった風吹を見たお医者さんに、「この子は聞こえてないかもしれない」と言われた。その時は周りの人にも「男の子は発達が遅いって言うし、実際に僕の父親も喋り始めたのは遅かったから」と言われていたから、楽観的に考えていた。「大袈裟だなぁ」としか思わなかった。
で、楽観的に考えたまま、検査を受けた。そうしたら、想像以上に時間がかかって、嫌な予感がした。
なんて言われたの?
検査が終わって、「お子さんは右耳はほとんど聞こえません。左耳は補聴器をつければ聞こえるかもしれません」と告げられた。
その言葉を聞いた時はどんな感じだった?
楽観的に考えていたから、信じられなくて、目の前が真っ黒になり、崖から突き落とされたような気持ちになった。耳が悪いって言われてもどうしたらいいか全くわからなかったけど、「聾学校に通って補聴器をつけて早めに訓練すれば、言葉は話せるようになると思います」とお医者さんからは言われた。そして、お医者さんの勧めですぐに聾学校に週に2回通うことになった。
聾学校に通い始める。
母聾学校は家から車で1時間ぐらいのところにあった。比較的障害の軽い子は週1回で、重い子は週2回だった。風吹は週2回だった。
自分の障害の程度は重い方なの?
そこにいる子たちの中では重い方だった。もっと軽い子もいてそういう子は週に1回。
軽い子たちは聾学校に行く前には相談室に行ったけど、聾学校に通っていない子もいるってこと?
その後は聾学校の幼稚部に行くか、普通の幼稚園に行くか。その子たちのほとんどは幼稚部には行かないで、地元の幼稚部に通っていた。実際にいた子で、週2で通っていた子の聴力が正常に戻った子もいたから、希望を持つことができた。
乳幼児相談室の時はどういう訓練をしたの?
訓練とかではなく、親との関わり合いみたいな感じ。1歳を超えたあたりから人見知りをするようになった。今思えば、聞こえが悪かったからだと思う。 乳幼児相談室に連れて行ってた時に、自分から離れようとしなかったから、「子供が親から離れようとしないのは信頼関係ができていないから」と先生に言われたこともある。ショックだった。そこでは、行事を通して言葉の体験をさせて、言葉を増やしていった。訓練というよりは遊びの中で、言葉を覚えていった感じ。
3歳から聾学校の幼稚部に
聾学校の幼稚部は毎日通った?
平日は毎日だった。
一緒に通っていて大変だったことは?
聾学校までが遠かったから大変だった。車で通ってても疲れる。担任の先生から、片道1時間かけて通うのは大変だから、引っ越したほうがいいですよと言われた。それで引っ越すことを決意した。
こうして、父親が遠くから職場に通うことになった。
聾学校の間は、手話や言葉の勉強はどうしていた?そこらへんはどうだったのかっていうのは俺もあんま覚えてなくて、どういう感じだった?
やっぱり手話はあんまり先生方は使わなくて口話、口を読み取ることが多かった。
昔はやっぱり口話がメインだった気がしていて、子供たち同士だけで手話を使っていたけど、先生は使っていない。親御さんも耳が聞こえない方は、手話を使っていた。今自分は仙台の聾学校に週に1回ぐらい通っているんだけど、先生も手話を使っている。もちろん日本手話ではないんだけど、手話で会話ができていて、ちょっとずつ手話が受け入れ始めたのかなって感じる。
幼稚園を卒業した後はどうしようと思った?自分のように障害がある程度軽い、中等度ぐらいの場合は普通小学校に通うこともできるし、聾学校の小学部に通うこともできるけど、ここは結構悩んだ?
最初はあんまり進路のことは深く考えていなくて、言葉が増えていけばいいなという思いだった。年中の後半、引っ越してから言葉がだいぶ上達したので、もしかしたら普通の小学校でも大丈夫かなと思った。
小学校のときは自我をまだ持っていないから、自分で進路を決められないと思う。親御さんが子供の進路を模索して決めると思う。小学生あたりの子育ては難しいと思う。
普通小学校に入る決め手はなんだったの?
お兄ちゃんがサッカー少年団に入っていたから、いつも連れて行っていて、試合には出ていない同じような弟軍団がいた。その子達について回って遊んだりとか、生意気なこと言って泣かされたりしても、それにもかかわらず遊びに行ってて、そういう様子を見て、この子は友達がたくさんいたほうがいい、普通小学校の方がいいのではないかと思った。様子を見たり、先生などにも相談したけど、学校の先生が様子を見て、難しいと言われたこともあった。他の幼稚園に交流で行く機会があったんだけど、、そこに行くと借りてきた猫みたいにあまり喋らないから、「お母さん、普通小学校は難しいかもしれないね」って先生に言われたことも。 だけど、他の幼稚園の子が聾学校に交流に来た時に、お昼のお弁当を食べる時にポケモンで盛り上がっていたのを先生が見ていて、「これなら、もしかしたら普通小学校に行けるかもしれない」と言われた。
環境が影響していたのかもしれないね。小学校に入学するってなった時に、少し特殊というか少人数制の1クラス8人までしか受け入れない小学校があった。
どこの学区からでも通えるその小学校がたまたま車で10分ぐらいのところにあった。後は、もともと聾学校と交流をしている小学校だったので、その小学校が視野に入った。
やっぱり、人数っていうのは選択する上で影響してくる?
聾学校の時は風吹も入れて2人しか同級生がいなかった(1クラス2人だった)から、もっとたくさんの友達が欲しいんじゃないかなと思った。
友達は欲しいけど、いきなり多すぎても戸惑うかなと思ったの?
最初から大きな学校にという考えもあったけど、聾学校の先生にも「少人数の学校だったら行けるかもしれない」と言われた。でも、そのまま聾学校に進むか、普通小学校に進むか、本人に聞いた時は「聾学校が良い」って言った。やっぱりその狭い世界しか知らないっていうのも大きかったと思う。それで、特認校の一日体験入学っていうのがあって、何も言わずに連れて行ったら、そこの小学校の子供たちが交流してくれたら、「楽しい。そこの小学校に行きたい」と言うようになった。
そうなった理由って、お兄ちゃんがサッカーをやっていて、普段から聞こえる子と触れ合う機会があったからだと思う。ちょっとずつ慣れていって、どっちの世界も触れる機会があったから、初めて体験に行った時も馴染めた。聾学校だけの関わりだと、いきなり普通学校に行くのは難しいから、接点を作れる場所が大事だと思う。
小5のタイミングで大きな小学校に転校した。
その時の選択肢は3つあった。
①そのまま少人数制の学校に通う。 ②学区内の小学校に転校する。 ③学区外にあった、通っていたサッカー少年団のある少し遠い小学校に通う。
俺はなんて言ってた?
その時も転校するってなったら、「今の学校でいい」と言っていた。
その時は担任の先生とともいざこざがあって、半グレっぽくなって保健室行ってたりとか、他の友達にもからかわれることも多くて、よく揉めてた。揉めてて、自分の感情がコントロールできない時に、手を出してしまったこともあって、俺にだけ注意してくることが多かった。でも、からかいは無くならなかったから、精神状況的にはあまり良くなかった。
それでも、いざ大きな学校に行くとなったら、どうしようかなと悩んでいた。
転校するっていうことはどういう感じで決まったの?話し合いとか?
サッカー少年団で知っている子もいるし、中学校にもそのままスムーズに行けるだろうってことで、いろいろ話し合いを重ねて決まった。
最終的には自分と親が納得のもと、転校したってことね?
その時はもう小学校4年生だったし、話し合いをして決めた。
前編はいかかでしたでしょうか?
後編は人間関係で大きな悩みを抱えていた思春期時代を どのように乗り越えたのか、、
より最近の出来事なので、自分のリアルな思い出と共に書いています。
ぜひお読みください!