知っているようで知らない!?バリアフリー日本語字幕の世界⑨

知っているようで知らない!?バリアフリー日本語字幕の世界9

私のバリアフリー字幕制作の過程では、避けては通れない、「字幕モニター会(字幕試写・検討会)」。※企業や字幕制作者によっては必須事項ではありません。
制作会社、字幕制作者、聴覚障害当事者がバリアフリー字幕に関する検討会を行います。
正直に言えば、最初は「なぜ当事者による字幕チェックをするのか」に明確な答えを持っていませんでした。どこかで、「便宜的な対応」や「企業のCSRの一環」として受け止めていた部分があったのです。
今回は、「聴覚障害者(ろう者・難聴者)」にまっすぐ向き合うきっかけをくれたモニター会の話です。

「聴覚障害者」という言葉が、見えなくしていたもの

字幕制作者になるまで、私は聴覚障害者とは接したことがなく、どこか遠い存在でした。
字幕制作者になり、字幕モニター会にて「聴覚障害者モニター」という肩書を、私はどこかで便利な枠組みとして受け取っていたのかもしれません。

聴覚障害者(ろう者)=手話を使う人、言葉を話せない人、だから手話や字幕が必要。
そんな短絡的な認識を、無自覚に持っていました。
実際にお会いしたモニターの方々と対話を重ねる中で、それがいかに一面的で失礼な見方だったのかを思い知りました。

ある方は、子どもの頃「手話は使ってはいけない」と教えられ、発音訓練ばかりの日々を送っていたといいます。
別の方は、大人になってからようやく手話を学び、日本語の書き言葉も勉強し直していると話してくれました。
言語の獲得経路も、使いやすい表現手段も、人によってまったく違う。
けれども私は「聴覚障害者=こういう人」という像を、いつの間にか自分の中でつくり上げていたのです。

「聴覚障害者」という言葉は、社会的な文脈では必要な表現かもしれません。
しかし、それが時に「この人はこういう人だ」と決めつけるラベルになることがあります。
そのことに気づいた瞬間、自分の考えが根本から揺さぶられた気がしました。

モニターとは何か

バリアフリー制作の現場では、「モニター」と呼ばれる人の存在があります。
作品が完成に近づいた段階で、実際にバリアフリー字幕や音声ガイドを使用する立場の人たちに見てもらい、内容をチェックしてもらう役割の方々です。
情報が正しく伝わっているか、伝え漏れていることはないか、視認性の確認や表示について、過剰な説明や表現になっていないか……。
けれどこの「モニター」という言葉も、よくよく考えると曖昧なまま使われている現場が多い印象です。

「モニター=試しに見る人」という語感もあって、なんとなく“最終確認”や “フィードバックの提供”くらいのイメージで捉えられがちです。

一方、海外では同じような役割に「クオリティチェッカー(Quality Checker)」という言葉が使われることがあります。
これは単なる“ユーザーの代表”ではなく、バリアフリー字幕の完成度や整合性、情報の妥当性をチェックする“専門的な目”としての立場を意味しています。
こちらの方が、「モニター」よりも、責任や権限の所在がはっきりしています。
特にバリアフリー字幕や音声ガイドのアクセシビリティにおいては、「ユーザー視点での最終判断者」としての重みがあります。そこには、クオリティそのものを支える一員としての尊重があるのです。

私が関わった現場でも、バリアフリー字幕を見てもらったあと「もし気になるところがあれば、教えてください」とお願いしていたのですが、今思えばその頼み方そのものが、“お願いベース”のものでしかなかったのではないかと思います。

その人が何を感じ、何を受け取れなかったのか——それは本来、「見ていただけたら嬉しい」以上に、「作品として成立しているかどうかの指標」になるべきものだったのに…

「モニター」という呼び方に、私たちはどこかで「意見を聞くための協力者」という姿を重ねてしまいがちです。
しかし本当は、作品の完成度をともに担う共同制作者の1人として迎え入れる必要があるのだと思います。

当事者の声から見えること

当事者モニターの方々から寄せられた意見は、どれも作品を丁寧に受け止めたうえでの、具体的で率直な声ばかりでした。
たとえば、あるシーンについてこんな指摘がありました。

「このシーン、何の音がしているのか字幕からは分かりませんでした。映像の空気は伝わるのに、音が置き去りになっている感じがしました」
また別の場面では、こんな声も。
「怒っているシーンで、“怒鳴って”などの字幕が出てこなかったのはどうしてですか?」

私はそのとき、
「顔を見れば、怒っていることが分かると思ったので、字幕にはしていません。バリアフリー字幕のルール上も“見て分かること”は基本的に書きません」と答えました。
しかし、そのあとで返ってきた言葉に、私はハっとしました。

「“見えているから不要”というのは、健聴者の発想や判断ではないでしょうか?」

たしかに、怒っているように見える表情——たとえば、眉間にシワが寄っていて、青筋が立っているような顔つき——をしていても、実際に発せられている声は、静かで落ち着いていることもある。
逆に、柔らかい表情のまま、鋭く刺すような声を出すこともある。

私が無意識に省いていたのは、「顔の印象と声のニュアンスは必ずしも一致しない」という、ごく当たり前のことでした。
「見れば分かる」という判断の裏に、自分自身の感覚を“標準”として据えてしまっていたのだと気づかされた瞬間でした。

バリアフリー字幕の表現の“足りなさ”や“ズレ”は、技術の問題以上に、感覚の前提がどこにあるかを問うものなのかもしれません。
受け手の声を聞いて初めて、自分のまなざしの偏りが浮かび上がってくる。そんな経験でした。

対話が変えた視点

モニターの方々と向き合うなかで、私は何度も自分の「思い込み」にぶつかりました。
自分なりに工夫をして、丁寧に字幕をつけてきたつもりでした。でもそれは、「自分にとって自然」なだけであって、見る人にとっての自然ではなかったかもしれません。

【見れば分かる】
【聞こえない人のために情報を足す】
【音の内容を文字に置き換える】

どれも正しいように思えます。

しかしそれは「どんなふうに」聞こえているのか、「どんなふうに」伝わっているのかという、作品の“質感”をどう届けるかという問いには届いていませんでした。

たとえば、「“ゆっくり話す”と“ためらいながら話す”は、字幕でどのように違いを出すのか?」という質問をいただいたこともあります。
それまで私は、バリアフリー字幕は情報を抜けなく届けることにばかり気を取られてばかりでした。
しかしその問いには、役者の「間」や「迷い」、つまり“言葉にならない感情”をどう扱うかが含まれていたのです。
字幕はただの情報ではなく、“行間”も含めて読み取られるものだったのです。
こうして少しずつ、私は「伝える」ということの意味を問い直すようになりました。

自分が届けようとしているものは、本当にその人の視点に立っているだろうか?
「これは分かるはず」「これは説明しなくていい」という判断は、どこから来たものだったのか?
そう自問するようになってからは、制作時の視点が少しずつ変わっていきました。

「どんな表示方法なら、その場の空気をすくえるか」
「その沈黙を、どう伝えたらよいか」
「“伝わる”のではなく、“一緒に見る”ために、どんな字幕をつけるべきか」
モニターさんとの対話は、「気づき」を与えてくれるだけではありません。
自分の感覚に揺さぶりをかけ、“つくる側”としての姿勢そのものを問い直す力を持っています。

そして、そうした関係はただの「確認」や「チェック」ではなく、作品の奥行きを支える、もう一つの“まなざし”を持った協働者との出会いなのだと、今は思っています。

見えない協働者とともに

字幕制作の現場では、目立ちはしませんが、確かにそこにある関係性がいくつも重なっています。
その一つが、モニターさんとの関係です。

作品を仕上げていくなかで、直接的に名前が出ることも、クレジットにその役割が記されることもありません。しかし私はいま、モニターさんを「最終チェックの人」とは呼べない気持ちでいます。

それは、“協働者”だと思っているからです。

作品を通して、私たちはどんな言葉を使うのか、どんなふうに空気を伝えるのか、どこに線を引くのか、引かないのか。それらすべてに対して、モニターの存在は問いかけます。
そこに込めたつもりだったもの、無意識に省いたもの、それらを浮かび上がらせる鏡のような存在です。

字幕制作において、「誰に向けてつくるのか?」という問いはいつも横にあります。
しかし、その「誰か」の声が実際に届く場所で返ってくることはあまりありません。私たちは想像しながら、言葉をつけていくしかありません。
しかし、モニターという存在があることでその想像は現実の声と出会うことができます。
そこで返ってくるのは、評価や合否ではなく、「このままでは届かないかもしれない」「こうすれば、もっと伝わるかもしれない」という、もう一つの提案です。

海外では、字幕の正確性や統一感を担保する技術的なチェックを行う者と、実際のユーザー視点で体験に向き合う者との分担がなされています。
日本ではこの線引きが曖昧で、制作側も“確認してもらうだけ”の関係にとどまりがちです。
けれど私は、モニターの言葉に何度も立ち止まり、字幕の根本を問い直す経験を通して、これは明確に「創作の一部」だと感じるようになりました。
画面に映るものだけが作品ではない。その奥で、それをどう届けようかと悩み、手渡す方法を模索する人たちがいます。
その声に支えられて初めて、バリアフリー字幕は“情報”を越えて、“物語”としての役割を果たしはじめるのだと思います。

協働者の姿は画面には映りません。
しかし、バリアフリー字幕のひと文字ひと文字のなかに、その気配は確かに息づいているのです。

バリアフリー字幕のそばにある対話

字幕づくりは誰にも見えないところで、言葉を聞き、置き、削り、また戻して、映像と向き合い続けます。
ときには「これでいいのか?」と不安になりながらも、それでも観る人の体験に寄り添いたくて作り続けます。
そのそばに、「見る人のまなざし」が加わったとき、私はようやく自分の視野の狭さに気づけました。

アクセシビリティという言葉は、「配慮」や「対応」として語られます。
しかし私はいま、「ともに作品を届ける」ための協働のかたちとして、それを捉え直したいと思っています。

届ける側と、受け取る側

その境界は、思っているほど明確ではないのかもしれません。
私たちはみな、日々変化する身体と感覚で作品と向き合っています。
今日の“つくり手”が、明日の“受け手”であることもあります。
だからこそ、創造し合うこと、問いかけ合うことが、作品の可能性を広げていく。
バリアフリー字幕には、そんな対話のかけらがたくさん込められているのです。

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この記事を書いた人

初めまして!字幕ライター/ディスクライバーの みかん です。
字幕ライターとしては、まだまだ精進の日々です。
私生活では2児の母でもあります。長女が視覚言語優位のため、手話を交えた会話がメインです。「みかんの字幕だから観に行きたい!」と思ってもらえるような制作者を密かに夢見ています。
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障害者差別解消法が改正され、合理的配慮が義務になり「字幕」や「音声ガイド」に触れる機会が多くなりました。しかし、エンタメやメディア、舞台や芸術総合においてはまだまだ対応が遅れているのが現状です。
なかなかハードスケジュールな字幕制作の過程や、経験談など字幕ライターとして発信していきます。どうぞ、よろしくお願いいたします!!