聞こえる私が映画やアニメを観ていると、セリフも音楽もないのに、なぜか強く心に残るシーンが多くあります。
ただ“音が少ない”のではなく、「音(音響効果など)の選び方」そのものが意味を持っているような場面です。
では、その“意味のある音”は、音が聞こえない・聞こえづらい人にも同じように伝わっているのでしょうか。
今回の記事では、バリアフリー字幕の検討会で、あるシーンをきっかけにその問いと向き合うことになりました。
テーマになったのは、たったひとつの「足音」の音情報。制作側とバリアフリー字幕の現場で実際に起きたディスカッションをご紹介します。
たった“足音”をめぐる考え方の違い
議題になったのは、
キャラクターたちが、立ち止まらずに走り続ける。──「止まってはいけない」という内面を、言葉ではなく動きの演出で描かれているシーンです。
ここで特徴的なのは、その音の作り方でした。
・セリフなし
・音楽なし
・環境音もなし
あるのは、ひたすら響く“足音”だけです。
つまりこの足音は、単なる走るという動作の音(ラベリング)ではなく、キャラクターの心の状態を表現するための“演出”でした。
ここで問題になったのが、字幕にこの〔足音〕という音情報を入れるかどうかでした。
バリアフリー字幕には、「見て分かる情報(音情報や話者名)は基本的に書かない」という基準があります。
画面に走っている様子が映っている以上、足音は説明しなくても理解できる、という前提です。
そのため当初は、〔足音〕という字幕は入れない方向で考えていました。
しかし、制作側として出席されたプロデューサーや音響監督からこんなことを言われました。
「この足音は、ただの足音ではない」
すべての音をあえて消し、足音だけを残している。
その選択自体が演出であり、意味を持っているのに、それを字幕で示さないのはおかしいのではないか。
ということでした。
このやり取りの中で初めて知ったのは、「音響効果の役割の違い」でした。
入れる音には種類がある
教えてもらったのは、「音(音響効果など)にはいくつかの役割がある」ということでした。
たとえば…
・映像に合わせて入れる音(食器の音、車の走行音、歩く音、人混みの会話、剣戟など)
・編集などテクニカル的な部分で入れる音(編集点の繋ぎ目をぼかしたりなど)
・見る人の気持ちや視線を誘導する、意味を持って強調された音
これまで字幕制作の現場では、こうした音の判断は字幕制作者の感覚に依存する部分が多くあります。
今回のケースは、その基準だけでは捉えきれない、映像と効果音の両方があって(見えて・聞こえて)成立するものでした。
さらに印象的だったのは、当事者の方からの質問でした。
「環境音とは何ですか?」というものです。
環境音とは、季節の虫の鳴き声や遠くのざわめき、風の音など、無意識に空間を作っている音(サラウンド)のことを言います。
聞こえる人にとっては、普段は意識することが少なく、いわば“あって当たり前”の音(ノイズ)です。
しかし、その“当たり前”はすべての人に共通するわけではありません。
聞こえない・聞こえづらい人にとっては、それがどのようなものか想像で補完するしかなく、場合によっては存在しないものと同じになると言われました。
ほかにも、「呼吸って音がするんですか?」という質問もありました。
この一言で、普段意識することのない音ほど、その前提は大きく異なり、自分たちがどれだけ“音に囲まれて生きているか”に気づかされました。
「見れば分かる」という時代の限界
今回の字幕検討会で強く感じたのは、「見れば分かる」という考え方の限界でした。
私としての結論は、「見れば分かる」は必ずしも伝わっているわけではない、ということです。
見えていることと、理解できていることは同じではありません。
そして演出としての音は、映像だけでは伝わりきらない…… 見たって分からない、見えて聞こえて初めて成立する場合があります。
これまでの字幕制作では、重要な音は丁寧に拾いながらも、それ以外の音についても字幕制作者の感覚に委ねられる部分が少なくありませんでした。
その結果、本来は意味を持っていた音が、ただの情報として処理されてしまっていた可能性もあります。
もしそうだとすれば、制作側が本当に届けたかったものが、十分に伝わっていなかった作品もあったのかもしれません。
そう考えると、その影響の大きさに身が引き締まる思いがします。
つまり、“見えている”と“理解できている”は別の話だったのです。
教わったことを現場でそのまま忠実に落とし込む、従来通りに検討会や制作側からのフィードバックを修正するだけではなく、もっと同じ土俵に立てるくらいに知識をつけなければいけないなと実感しました。
実写映像には実写映像の、アニメ映像にはアニメ映像の、舞台には舞台の、見せ方や画角、カメラワーク、音楽や効果音のルールが存在します。
音響監督さんやプロデューサーさんに言われた
「見て分かったら、作る側も見る側も誰も苦労はしませんよ。伝えたくて作っているのに、音の背景にどんな物語があるのかを字幕で篩(ふるい)にかけられるのは、それこそ暴力ですね」という言葉が強く心に刺さりました。
音響効果がワクワクする時代になっている
今回の経験をきっかけに、音響効果が担う意味をもっと深く理解する必要があるなと感じました。
最近の映像作品は、劇伴(劇中で場面に合わせて流れる音楽など)やセリフ以外にも音響効果が表に出るような演出が多くなってきています。
今までは「音を語らせるな」「わざわざ言わなくても良い」と言われていた効果音などは、音響効果さんやフォーリーアーティストと呼ばれる職人さんたちによって手作りされることも多くあります。
その生音の生き生きとした情感やワクワク感など、聞こえる人たちはその音だけでとても興奮します。
多くの情報や意見が交わせる時代となり、多くの方が音響効果について深く語っている投稿なども目にします。
たった一つの足音であっても、そこには感情や意図が込められています。
それをどう受け取り、どう伝えるのかは、作品によっては明確な答えがあるわけではありません。
だからこそ今、音がどのように作られ、どんな意味を持っているのかを改めて学び直し中です。
効果音制作の現場にも足を運びながら、その音の背景にある考え方や解釈を理解し、「見れば分かる」から「どうすれば音の背景を考えてもらえるか」へアップデートしていきたいなと思います。
人によっては「邪道だ」「字幕はあくまで情報保障」「芝居をしてはいけない」と思う方もいるかもしれませんが、楽しい情報保障があっても良いのではないか……と常々感じています。
今回の〔足音〕の音情報表記に関しては、走っている足元のクローズアップのカットがあったため、採用は見送りになりました。
音響監督さんが出席してくださったので、字幕に関しては一つ一つの表現を丁寧にディスカッションすることができました。検討会に出席してくださる制作側のスタッフさんによっても、きっとこの最適解は違っていたと思います。
作品をより深く届けるための一歩は、まだまだ遠いなと感じています。
