りょうすけってどんな人?
おはようございます!こんにちわ!こんばんわ!
初めまして!神戸市を中心に関西のTopicを書くライター初心者のりょうすけです。
趣味はバスケとお酒を飲むことで、カメラマンとして仕事をしている障害者手帳3級の聴覚障害者🦻
どんな写真を撮って仕事にしているかはこちらをご覧ください! → カメラのアカウント
特に、ビールが大好きでクラフトビールに少しずつハマりつつ…(財布がぶっ壊れそうで心臓バクバク) 日本酒も大好き!!
いきなりだが、なぜライターをすることになったのか? 「聞こえへん、聞こえにくい人でも行きやすいお店とかイベントの情報って、案外見当たらへんよな…」となり、タイミングよくこのWebメディアのキコニワをスタートさせる話が出てきた。 「そや!このWebメディアで若者中心の情報を書いたらええやん!」というきっかけから、ライターをすることになった。 聞こえない人でも行きやすい日本酒専門店や居酒屋、音楽フェス や 聞こえない人の1日の過ごし方 などなど… 遊ぶことやお酒、町歩きが大好きな僕だからこそ出かける楽しさを伝えたい。
色々とおもろいことを書く前に僕のことを「へぇ〜こんな人なんや」程度に知ってもらいたい。
簡単に現在までの人生の流れ
小学校 : ろう学校
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中学校 : 難聴学級がある中学校
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高校 : 地元の高校
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専門学校 : ゲームプログラムを専門に4年間通学
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卒業後は就職せずに、趣味だったカメラを仕事にしようとフリーランスの道へ歩み始める
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現在フリーランスカメラマンとして3年目、これから起業しようと奮闘中
小学生時代
小学校は6年間ろう学校に通ってきた。
小学1年〜5年の途中までは神奈川県のろう学校。
5年の途中から卒業までは兵庫県のろう学校に通学。
もちろん「手話」が第一言語でろう学校の友人と遊んだりしてきた。
とにかく運動が大好きな小学生で、放課後は地域のクラブでサッカーをしたり、クラブがない日はお父さんと公園に行ってボールを蹴ったりキャッチボールをしたり走り回ったりと常に体を動かしていた。
第一言語が手話の傍ら、大学病院や学校内の聴覚支援室で発音・聞き取りの訓練や、1,2ヶ月に1回地元の小学校に一人で1日だけ交流に行ったりしていたため、「聴こえる世界」で生きていくことは何も問題がなかった。
地元にろう学校以外の友達ができてコミュニケーションをとることも、地元のサッカークラブでコミュニケーションを取りながらスポーツをすることも全て楽しかった。
はっきり言うと炎上してしまいそうだが、聴こえない世界で過ごすよりも楽しい。
手話で話すペースや感情の伝え方よりも口話のペースで早くいろんな話題が飛び交う環境が僕には合っていた。
なぜこんなに聴こえる世界で過ごせるのか?
僕が4ヶ月くらいの時に「耳が聞こえないんじゃないかな?」と”母親の勘”でおかしいと思ったらしい。
実際に検査したところ聴覚障害を持っていることがわかり、早い時期から補聴器をつけており、
”音”に慣れるのが早かった。 小さい時から聞こえの訓練や発音の練習をしてきた。
その訓練をしながら手話も覚えてきた。
僕が大きくなった時に「視覚活用」「聴覚活用」どちらも選択できるようにと、
母親が色々と助けてくれていたおかげで、今聴こえる世界で生活ができている。
6年生の時の担任の先生から「中学から普通の中学校に通ってみない?」と提案された。
2つ返事で「行きたい」と答え、難聴学級(※)がある中学校へ入学することになった。
※.難聴学級とは! 国数英といった基礎科目を先生とマンツーマンで授業を受けるクラスのこと。 普通クラスで受けると「聴こえにくいハンデ」がある分スピードについていけないため、分からないことがあったらすぐに聞ける環境で授業を受けることができる。 また、僕が通っていた中学では音楽もマンツーマンで受けていた。
中学生〜高校生時代
担任の先生の勧めで難聴学級がある中学校に入学した。
中学に上がってもサッカーを続けたかったが、入学する年に他の学校と合併し、校庭が狭いためサッカー部がなかった。 そのためソフトテニス部に入部。
また、難聴学級にいたため手話部にも強制入部…
その時はあまり乗り気じゃなかったが「どうせやらなあかんねやったら、楽しもう」と気持ちを切り替えて、2年生から部長を任された。
部員は難聴学級の生徒2,3人を含む5~6人くらいで月一くらいの活動だった。
普段は指文字や簡単な会話を覚えたり、文化祭が近づいてきたら手話歌の練習を始めるなどのんびりと活動していた。
国数英以外の授業は普通クラスで受けていた。
その時には、その時間に授業がない先生が代わりばんこで「ノートテイク」をしながら補助してくれた。
これがものすごく助かっていた。
先生が言うてることを要約したり、大切なワードを書いてくれたり。 それがないともっと勉強が嫌いになっていたかもしれない。
学年集会や全校集会の時はクラスの友達がノートテイカーとして協力してくれていた。
助かっていたな〜〜〜〜〜〜〜ってふと思う。
3年間何事もなく、たくさんの友人に恵まれ、好きなスポーツをしながら、休日は友達と遊んだりカラオケに行ったり、青春を過ごしてきた。
中学3年になりいよいよ初めての受験。
聴こえにくいからといって特に何かしていたわけでもなく、周りと同じように授業と赤本を解きまくって勉強したり学校から配られる問題集や過去問をこなしまくっていた。
最初は推薦入試で受験したが不合格だった。
その高校にどうしても行きたかったため一般入試で再度チャレンジし、合格を勝ち取った。
受験番号が表示されていた時はほんまに嬉しかった。
「よっしゃ!!!!!!」と声が勝手に出るくらい嬉しかった。
その時の感情や景色は今でも思い出せるくらい記憶にはっきりと残っている。
年老いて寿命を終えるときの走馬灯にも出てくるんじゃないかな(笑)
受験が終わり卒業、華の高校生活がはじまった。
ここから今の人生に大きく関わるスタートラインに立った。
高校では中学の昼休みに遊んでたバスケが楽しかったからという単純な理由でバスケ部に入った。
部活中補聴器はどうしていたか?
外すことなくつけてやっていた。
流石に夏は汗をかきすぎて補聴器が壊れる可能性もあるので、外していたがそのほかはずっとつけていた。
外す時は必ずチームメイトと顧問に補聴器を外していることを伝えていた。
チームメイトは、はっきり喋ってくれたり身振り手振りで伝えてくれて、顧問は作戦ボードを使いながら目にみえる方法で説明してくれていた。
どう動いたらいいかわからない時は、わからないままにするんじゃなくて絶対に誰かに聞いていた。
勉強をわからないままにしないことと違ってチームメイトの足を引っ張るし、試合で負ける可能性もある。
責任感が全く違った。
じゃあプレー中はどうコミュニケーションをとっていた?
バスケをしている人ならわかると思うが、聴こえていない時は周りを常に見るように首を振っていたり、指差しや手振りなどで意思を伝えたり、伝えてもらったりしていた。
指差し身振り手振りをしてくれたからというよりも、普段から部活がない時でもコミュニケーションをとっていたため、僕がわかりやすい話し方を友達が覚えてくれていたのがとても大きかった。
聴こえづらいというハンデがある上に高校から始めるという経験のハンデを持ちながらも先輩や同級生、顧問に色々と教えていただいてバスケにすっかりハマった。
高校3年間はノートテイカーなどに頼らず、全て自力で授業を受けてきた。
高校の特徴は2年生から時間割を自分で組むことができ、さらに小人数制のため、授業中、授業後でも質問がしやすい環境だったので、安心して勉強ができた。
夕方まで授業、そのあとは部活。
夏休み冬休みも部活に明け暮れていた。
部活がOFFの日は、チームメイトとユニバに行ったりカラオケに行ったりしていた。
なんなら午前部活の後にユニバへ行ったこともある(笑) 今考えたらとんでもないことしてる(笑)
部活の後にユニバいく体力よく残ってたわ(笑)
これ以上ない青春を過ごしてきた3年間だった。
就職するか進学するかの選択を考える時期が来たときは「専門学校に進学したい」と思っていた。
昔から自分で何かを作ることが好きだった。
中学生の時に本屋さんでたまたま手に取った本が「ゲームプログラミング」で、やってみようと親に買ってもらいやってみたところハマった。
このようなことから自分のやりたいことを考えた時に、専門学校に行く選択肢が初めに思い浮かんだので進学することを決心した。
専門学校生時代
専門学校といえば2年制が真っ先に思い浮かぶと思う。
僕が通っていたところは4年制の専門学校で、この4年間がもう大変だった。
高校までの国数英その他とは違って全く知らない聞いたこともない単語がどんどん出てくる。
聞きなれない単語だと余計に何言ってるかわからなくて、高校までと全く違う頭の使い方をしてて疲れがすごかった。
「これが4年間続くのかぁーーー」って入学して1ヶ月で感じた(笑) 1ヶ月目でだよ?1年目じゃなくて(笑)
それくらい難しい内容だったし、周りとのモチベーションの差が激しかった。
もうすでにゲーム作ったことがある人もいたし、わからないことを先生に聞きにいっても「プリントに書いてあるからわかるでしょ」って教えてくれなかったりでやる気はもうどんどん下がって(笑) 先生に聞くのはやめてサンプルをいじりまくって
” ここをさわればここが動くのか ” みたいな感じで触って覚える方法に切り替えた。
「ゲームを作る」ということよりも、基礎を身につけて、課題も最低限やって
「好きなことを極める」という時間の使い方にした。
それがバスケとカメラだった。
フリーランスカメラマンとして活動している今
趣味だったカメラを仕事にしようと、就活をやめてカメラを本気で学び始めた。
情報保障など一切なく、実際に撮影したデータを編集して講師に提出してアドバイスをもらいながら受講し、スキルアップしていくスタイルだった。
講座はzoomだし、映像コンテンツに字幕はないし。
情報保障がないとわかっているのになぜカメラマン講座を受けようと思えたか
- 本気でカメラを勉強したいと思っていた
- 自ら「聞こえないことについて / どうして欲しいか」を言うことに慣れていた
本気度ももちろん大事だが、やっぱり「自ら伝えることに慣れているかどうか」や「自ら伝える勇気があるかどうか」がとても大事だと思う。
というか、本気でプロとして活動したいと思っているなら伝える勇気は自ずと出てくるはず。
同じくプロになろうとしている仲間たちと切磋琢磨しながら受講し、合格基準に達しプロになることができた。
ここからが本番で、今度はお客さんに耳が聞こえづらい旨を伝えなければならない。
これまでと全く違う責任があり、「お客さんを不安にさせないように」ということが大前提。
世の中のイメージはまだまだ 聴覚障害がある = 全く聞こえない / 喋れない というイメージがある。
そこで僕は、メッセージのやり取りの時点では伝えないことにした。
人によっては「先に言った方がいいんじゃない?」と思う人もいるかもしれないが、しっかりとした理由がある。
お客さんの思い込みで不安にさせないようにするため。
実際に会って自分の口から伝えたほうが、コミュニケーションしながら伝えられるため変な勘違いが起こらない。
「後ろから話しかけられたり横から話しかけられると気づかないが無視しているわけではない」、「聴覚障害を持っているからと言って特別何かする必要はない、普段通り話してくれれば大丈夫」ということを会った時に伝えている。
文面で伝えるのと会ってから伝えるのでは全く相手の受け取り方が違うと身を持って感じた。
これから聴こえる世界で過ごそうとしている人に伝えたいこと
聴こえる人たちはよっぽど酷い人じゃない限り、聴覚障害を持っていることを伝えればわかるように話してくれる。
中学〜今まで自分がやろうとしていることの周りに聞こえる人がほとんどいなかった自分が、これまで経験して感じたことは 「何かしてくれる」「きっと助けてくれる」という考えで進学すると大変なことになる。
ずっと自分だけ関わるならそんなに大変じゃないかもしれないが、友達も別の友達と関わることは絶対にあるし、授業もある。だから1回言ったことは絶対に忘れると思う。
はっきりいうとそんなに甘い世界じゃない。
「自分はこうしてくれた方がわかりやすい」「こういう方法だとわかりにくい」と自分のことについてはっきりと話す勇気を持つことが大事だと感じた。
もちろん先生は助けてくれる立場かもしれないが、結局は自分でやらないと今後どうやって助けを求めるべきなのか分からず社会人になってから辛い思いをしてしまうと思う。
実際に僕の聴こえない友達がそうだった。
「最初に言ったのに改善してくれない」「筆談で話してくれない」「マスクをとってくれない」など。
でもそれらは全て自分が伝え続けてこなかった結果で、仕事のモチベーションも続かずネガティブな感情ばかりに。
「聞かれるまで待つ」じゃなくて「わかってもらうために自ら動く」ことが大事だなと!
まとめ
自分の人生は自分が過ごしやすいようにチャレンジして欲しいです!
僕の経験があなたの ヒント になれば嬉しいです
相談や質問などあれば僕のインスタでもキコニワのインスタでも構わないので気軽にDMしてください!
読んでくれたあなたの人生に幸あれ〜〜〜〜〜〜!!!!