こんにちは!ピノです。
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母乳育児にこだわり、アデホスコーワ(ビタミン剤)のみ服薬していくことを決断した私の右耳は…
ダンプカーの走行音のようなゴーゴーした耳鳴りは幾分和らいだものの、常に耳の中に水が溜まって抜けないような耳閉感と聞こえにくさが残っていました。
しかしながら育児は待ったなし、絶え間ない授乳とオムツ交換、終わりのない家事育児の日々が続いていきます。
当時、猫を飼っていたのですが「この猫の手を借りられたらなあ」と思ったことを思い出します。
私たち夫婦はどちらも実家が遠く、更に折り悪くして私の父親は約半年前から脳梗塞を発症し、命はとりとめたものの片側半身不随になり、母親は父親の看病で手一杯でした。
姑も仕事が忙しく、従って双方の親には頼れない状況でした。
唯一の助け舟になってくれるはずの夫はといえば…
若くして念願だったある国家資格を取得したものの、実際の現場は個人の「資格」よりは
所属する場の年功序列による融和を重んじる傾向が非常に強い縦社会です。
夫は中学生~高校生まではやんちゃ坊主で勝手気ままにやっていたようですが、心根は非常に真面目で責任感が強く、また並外れた野心とプライドを持つ人であるがゆえか
長男と私を、主に金銭的な面でしっかりと支えていかなければ…というプレッシャーは
凄まじかったのではないかと思います。
夫の育児参加は何だったかというと…
朝の出勤前に、私の母乳がスムーズに出るようにとの思いからなのでしょう、根菜たっぷりの豚汁とおにぎりを作ってくれていたのですが二週間経たないくらいにそれが無くなり。
あっという間に夫は猛烈仕事人間に戻り、私は完全なるワンオペ育児に突入です。
日に日に、孤軍奮闘しているという孤独感(当時はまだガラケーの時代でXやインスタグラムはありませんでした。)、慣れない育児と慢性的な睡眠不足からくる取れない疲労感、
それらによるストレスが身体の芯部に澱のように溜まっていく感覚。
当時の私は夫のことを思いやる心の余裕は全くなく。
疲れ切って帰宅した夫を待ち構えて、耳の不調と育児の大変さを訴える私に、
ある日夫が、俗に言う「キレて」きました。
それに呼応して私も「キレ返し」ました。
そんな両親の不穏な空気を察したのか、泣き始める長男の声が籠って聞こえます。
更に何かに追い詰められていく感覚に襲われ、長男と一緒になってワンワン泣いた記憶が蘇ります。
今、当時を振り返ってみると
夫も私もお互いが、目の前にいる、小さくてホヤホヤ泣いて弱々しくて命の儚さを痛烈に感じさせる長男を只々守っていきたい一心でした。
なのに夫と私、二人の思いがなかなか嚙み合わない、会話もコミュニケーションも足りていない。
もどかしくて腹立たしい…何とも言えない感情に私は悶々と支配されていました。
そんな状況下のある早朝
目覚めて布団から起き上がろうとすると立てません。
厳密に言うと、左脚が全く動かなくなっていました。
私はパニック状態になり、別室でまだ寝ていた夫の名を泣きながら呼びました。
夫は何事かと思ったのでしょう、すぐに来てくれましたが、状況説明をする私を信じられないという目で見つめてきます、「昨夜まで普通に歩いてたよね?!」と。
そうして、お布団の上に上半身のみを起こし、動く右脚は膝で折り曲げてるのに動かない左脚はドンと投げ出したままの私を、夫は私の胴に両腕を回してよっこらしょと引っ張り立たせようとしましたが左股関節に激痛が走り、また左脚に全く力が入らなく立てない。
只事ではないと判断したのか、夫は救急車を呼びました。(余談ですがこの時の救急車が私の人生初の救急車となります。この時は後々メニエール病による強烈な回転性の目眩で何度も救急車にお世話になることになろうとは夢にも思いませんでした。)
救急車で救急外来に運ばれた私は一通りの診察を受け、医師から言われた言葉は
「原因不明」でした。
また「機能的には何ら問題はない」とのことでした。
結局、救急外来だったこともあり入院もお薬もなく痛みを和らげる貼り薬のみでそのまま家に帰りました。
貼り薬の効果なのか、ゆっくりですがなんとか立って歩けるようになったものの左股関節の痛みは恥骨にまで響くようになっていました。
しかし救急外来でのレントゲン検査ではなんら異常なしだったため、また整形外科に行くのもためらわれ、どうしたらいいか分からなくなった私は長男を出産した助産院に相談に行き、そこで、今思い返しても本当にあったことなのか…イマイチ信じられない、驚きの施術をされたのです。
続く……
次回は10月29日(水)掲載予定です