まみねこです。
前回の話に続いて、今回はろう学校時代を通してろう教育が私と母にどんな影響を与えたか?について振り返ってみました。
前回の話はこちら→https://kikoniwa.com/mamineco-2/
今回もよろしくお願いいたします!
※人によってはしんどく感じる表現があります。心して読んでいただけるようお願いいたします。
夜遅くまで続いた訓練
訓練は、学校の中だけで終わるものではなかった。
家に帰り晩御飯を食べたあとも、母との訓練が待っていた。
母は、部屋中にさまざまな名前を書いたカードを並べ、私に声を出して読ませた。
他にも本を読ませたり、指さしで言葉を覚えさせたり、文字カードを見て読むことを何度も繰り返させたり・・。
他にも母がいろいろな話をして、私に口の動きを読み取らせ、復唱させることも続けていた。
小さいころ、最後に見た時計の記憶は、夜11時。
眠たくても寝かせてもらえない、そんな日々が、何日も何日も続いた。
母が背負っていたもの
ここで、母の当時の一日に思いを馳せる。
母の一日は、朝、私と弟を起こすことから始まった。
朝食を作り、弟を保育園へ送り届け、そのあと私と一緒にろう学校へ。
ろう学校にいる間、母はずっと私に付き添わなければならなかった。
そして、訓練が終わると私を連れて保育園へ弟を迎えに行き、そのまま買い物をして帰宅。
その後は食事、家事、洗濯、入浴、そして再び私との訓練――。
おそらく、母には一息つく暇などなかったのではと思う。
また、父は当時夜勤の多い仕事をしており、家にいる時間が限られていた。
そのため、母は今で言う“ワンオペ育児”の状態だった。
もちろん父も時には保育園とろう学校への送迎を手伝ってくれていたようだが、それでも母の負担は想像以上だったと考えられる。
そしてこれはあとで知ったことだが、私は同級生の中でも障害の程度が重い方だったとのこと。
加えて早生まれだったこともあり、他の子どもたちと比較して成長が遅かった。
当時は「早生まれの子は発達が遅れがちでかわいそう」といった考え方も一般的で、それが母にさらなる焦りを与えていたのかもしれない。
しっかり育てなければ、という想い
更に、まだ20歳という若さで周囲の反対を押し切って結婚し、生まれた子が障害児だった・・・
また、当時はまだ障害者に対する理解も乏しく、差別や偏見が当たり前のように存在していた時代。
それで母は周囲からさまざまなことを言われ、肩身が狭い思いをしていたのではないか、と思う。
頼れる人もおらず、父は仕事で不在がち。そんな中、「自分が何とかしなければ」「しっかり育てなければ」――
そうした思いが、母を強く追い詰めていたのかもしれない。
また、周囲を見れば、同級生で発音が上達していく子もいた。
そして私とその子たちを比較して思いつめてしまっていたかもしれない。
そして、精神的にもかなり追い詰められていたのではないかと思う。
それがおそらく、夜遅くまでの訓練に繋がっていたのではないかと思う。
必死になりすぎた母
今でも覚えている場面がある。
ある日、私は走っていて転び、膝をすりむいた。
母が駆け寄ってくるのを見て、てっきり「大丈夫?」と声をかけて心配してくれるのだと思っていた。
けれど、母は私の両肩をつかんでこう言ってきた。
「今、痛いよね? いたいって言ってみて。い・た・い。ほら、言ってみて!」
私は驚き、少し怯えて泣いてしまった。
「情操教育」という言葉があります。
これは、子ども時代に人への思いやりや感受性など、心の働きを育むための教育を指します。
また、そこから親子関係、また他の人との人間関係において信頼関係が育まれていきます。
今回の例で言えば、「痛い」と言えば、親から「大丈夫?」「痛かったね」と慰めてもらえることで安心感を得たり、逆に誰かが痛がっていれば心配して寄り添う──そうした心の成長が育まれるものです。
しかし当時のろう教育では、発音や聞き取りといった訓練が何よりも最優先とされていました。
また家に帰ってからも夜遅くまで訓練しなければならない状況がありました。(他の家でもそうだったと聞いています)
それでもなかなかうまくならない私に対して、母も心の余裕がなく強く焦ってしまったのだろうと考えます。
そのため母は、「痛かった?」「大丈夫?」と心配するよりも先に、「先に発音を教えなければ」と考えてしまったのかもしれません。
こうした積み重ねにより、親子関係を正しく育むことが困難になっていくこともあると感じています。
当時のろう教育の弊害は、こうした面にも表れていたのではないかと考えています。
他にも、私が弟と声で話していて発音が不明瞭だったときは、例え母が隣の部屋にいたとしてもすぐに飛んできて、「もう一度!」と繰り返させた。
そして「声ができないと生きていけないよ、大人になれないんだよ」と私に言い、
私がもう一度同じことを話しても発音がおかしければ、声で上手に話せるようになるまで繰り返させてきた。
弟とぬいぐるみや車のおもちゃで遊んでいるときもテレビを見ておしゃべりしているときでも、いつもそうだった。
弟はその間そばで待たされていたと思う。
母の耳は、いつも私の声を追いかけていた。
お互いに、どれほど気を張り詰めた毎日だったか。
振り返れば、あのときから母はもう「先生」みたいになっていた。
ろう学校でも訓練、家に帰ってからも訓練、学校にも家にも先生がいるような感覚で、
声を出すたびに監視されているような気持ちになって家でも安らげなくなってきていた。
追い詰められた母と私、安らぎを失った家
そうした日々が続き、母は疲弊していったのかもしれない。
やがては発音が下手だったとき、食器を落としてしまったとき、ご飯を食べるのが遅かったときなど、ちょっとしたことで激情するようになってきた。
そして、「なんでいつもそうなの!」など叫びながら、私の顔や頭、体を叩く、髪の毛を引っ張る、など手を上げることも増えてきた。
しかし、父が家にいるときは何もしてこなかった。いつもニコニコして料理もたくさん作ってくれていた。
なので、父が仕事に行くときはすごく怖くていつも父を追いかけて大泣きしていた。
このころからもうすでに家の中が安らぐ場ではなくなり、母のことを怖い存在として見ていた。
そして、母が腕を上げると、それがなんでもないときでもドキッとして離れるようになった。
ある日、そんな私を見て母はこう言ってきた。
「他の子のようにおかあさーんって言って甘えて抱きついてきてほしい」
「お母さん、多分死んだら地獄へ行くだろうね」
でもそう言われても、私は母に対してそんなことするなんてとんでもないという気持ちだった。
※このような母との関係は長らく続いていました。今は連絡を取り合ったりはできています。
少し重い話かもしれません。 でも、母は本当に追い詰められていたのだと思います。
もちろん、どんな理由があっても決して許されることではありません。ですが、当時は、障害者への理解が乏しく、手話もまだ一般に知られていない時代でした。
大人になった聞こえない人たちがどんな暮らしをしているのかも分からない、そんな中で、障害が重い私の将来に強い不安を抱き、例え聞き取りができなくとも発音が上達すればなんとか生きていける、と思って必死だったのかもしれません。その精神的な負担は、まだ若かった母にはあまりにも重すぎたのかもしれません。
(年齢の問題ではないかもしれませんが、当時の母には支えとなるものが少なかったのかもしれません)
悪いのは母ではなく、手話を否定し、口話主義を徹底していた当時のろう教育だったのだ・・と、今は思っています。
または、母は元々思い詰めやすい性格だったのかもしれない、そこに、口話主義が更に追い打ちをかけてしまったということも考えられます。
いずれにせよ、母にも、ほっとする場、安心できる支え、そして、「声で話せて聞こえることだけが全てではない。手話や筆談など他の方法で人と繋がることもできる」という知識や希望があれば、また違っていたのではないか・・・と思っています。
※「聞こえなくても」とあえて書いたのは、当時の母にとって「聞こえなくても生きていけるのか」が一番の心配事だったと思うからです。本当は「聞こえなくても」と言わなくてもそれが当たり前なのに。
もう一つ。これは私の人生を通して、口話主義の教育について感じたことです。
もちろん、当時のろう教育を「良かった」と思っている人たちもいるでしょう。
どんな教育もそうですが、教育というのは各々の家庭や子どもの状況、学校の考え方ややり方、更にその時代の背景などいろいろな要因が深く影響を及ぼすものだと思っています。
そして、当時の口話主義の教育はその影響が強く現れやすい教育だったと考えています。
更に、そこに「障害」という要素が加わってくる分、親の不安も絡み、どうしても教育が“徹底的”になりやすく、「できないこと=悪」といった意識が生まれがちだったのではと思っています。
更に当時の口話教育は手話を否定していた背景もあったため、母も私も苦しみました。
その上で、私が強く感じているのは、親も子も追い詰められてしまうほど徹底されたやり方は本当に正しかったのか?ということです。
更に言えば、家庭に大きな負担がのしかかるような教育が情操教育の観点から見て本当に健全だったのか?という点にも疑問を持っています。
一番は、やはり「声で話せて聞こえることだけが全てではないこと、さまざまな方法で人と繋がって生きていけること、そしてちゃんと大人になれるということ」ことを親と子が知ること。その上での教育であればまた違っていたのではと思います。(今はそうなっている学校もいくつかあると聞いています)
ろう学校を卒業するとき
そして、ろう学校幼稚部の卒業が近づいてきた。
そんなある日、母が私にこう聞いてきた。
「あなたはろう学校ではなく、別の小学校に行ったほうがいいと先生が言っていたの。
そこには、もっといろいろな友達がいるのよ。今のお友達とはあまり会えなくなるけど、いい?」
それを聞いたとき、友達と離れる寂しさや、新しい場所への不安もあったが、それよりも「これでやっとこのいろいろな苦しいことが終わるのかな?」と思って少しほっとしたのを覚えている。
そして、「いいよ」と答えた。
つづく…(小学校時代へ入ります)
※小学校時代から徐々に自分の耳が聞こえないということを理解し、葛藤しながらもさまざまなことを考えていきます
閑話休題
少し重い話が続いたので、少しくすっと笑ってもらえるかな?と思う写真をば。

これはろう学校幼稚部の庭です。
写真がぼやけているので具体的には何の絵かは分からないのですが、
どうやら猫?の絵のように見えます。ひげが見えるので笑
当時から私は猫のことが気になっていたのかな・・・?笑
でも実はネコアレルギーだったりするのです笑(これは皆さんからも驚かれます・・・)