挨拶
こんにちは。くらげです。10月も終わりを迎えて寒くなってきましたね。先日まで夏が続いてるような暑さでしたが、補聴器や人工内耳に汗は大敵で、こまめに拭いたり乾燥機に入れたりしなければいけないのですが、皆様はちゃんとメンテナンスをしていますか?私はズボラなので必要性は感じつつもなかなか…というところです。見かねた妻が私が人工内耳を外している間に拭いたりしてくれています。ありがたいことです…。
聴者は理解してくれない
さて、このコラムは「聴覚障害者と健常者のギャップを埋めたい」というのが大きなテーマです。聴覚障害者が集まると「聴者は聴覚障害を理解してくれない」という悩みが話題になることが多いです。仕事で必要な情報を渡してくれない、医者がマスクを外してくれないので唇を読むことができない、家族もあまり自分に話しかけてくれない…といった悩みは聴覚障害があると必ず出てくることですね。その話から「だから聴者はひどい」と思ってしまうことも少なくないと思います。
しかし、もう一歩踏み込んで「なぜ聴者は聴覚障害者のことを理解してくれないのか」を複数回に渡って考えてみたいと思います。
なぜ「理解されない」と感じるのか
まず、なぜ私達聴覚障害者が聴者は「理解してくれない」と感じるのでしょうか。いろいろな理由があるとは思うのですが、大きく分けて「聴覚障害者のことを知らない」ということと「こちらの求めることをしてくれない」という2つの点があるように思います。(もちろん、双方が入り交じることも多いです)
「聴覚障害のことを知らない」ことは、たとえば聴覚障害者に対して子どもに言うように話してくるとか、いきなり耳元で叫ぶように話すとか、こちらが不愉快に思うことを平然と言ってしまう、ということを引き起こしますし、仕事をするうえでも「聞こえないならこれくらいの仕事でいいだろう」といった決めつけが横行する原因ともなっています。
もう一方の「こちらの求めることをしてくれない」というのは、「筆談してほしい」とお願いしたときに筆談をしてくれなかったり、手話通訳者を依頼してもすぐに無理です、と言われたりすることがあります。
このような「無理解」にぶつかると本当にイラッとしたり悲しくなったりしますし、仕事や勉強を行う上で支障が出ることもあります。場合によっては健康を損なったり、正しい情報を得ることができずに損をすることもあります。こういうとき、「理解してくれない」と感じますし、その無理解に対して怒りが沸き起こるのも当然です。
なぜ「理解」してくれないのか
しかし、なぜ聴者の多くは聴覚障害者に対して誤った考えを持っていることが多いのでしょうか。それは「聴覚障害者と接する機会」がわれわれ聴覚障害者が思う以上に少ないからというのはありそうです。聴覚障害者からすれば、自分ごとですから聴覚障害そのものはとても身近というか自分ごととして存在しますが、聴者から聴覚障害者と接することは多くの場合は「レアケース」です。ですから「聴覚障害に対する知識がない」事自体は残念ながら当たり前なのでしょう。(ここでいう「知識」とはなんだろう、というのは別な回でやりたいと思います)
一方で「求めていることをしてくれない」ということはこちらの要望が通らないわけですから、それを無視するのは何かしらの理由があるはずです。そして、「理解してくれない」と感じるときは理由を話さないとか、理由がはっきりしないとか、明らかに誤解しているなどの理由があってより不信感を持ちます。そういうときが一番「理解してくれない」と感じる瞬間ではないでしょうか。ときには相手の悪意を感じることもあると思います。
相互理解を考える
しかし、聴者の方から話を聞いてみると「聴覚障害のある人からの依頼を叶えるのは難しい」とか「そもそも何を依頼されているのかわからなかった」とか、いろいろな理由があるわけです。「自分たちの問題」というよりも「聴覚障害者側がこちらの事情を考えてくれない」と感じているわけです。そういう「お互いにお互いのことを悪いと思っている」となるわけですね。そして、相互不信がお互いに膨れ上がって感情的な衝突も起こりやすくなります。
こう考えるともうどうにもならない気もしますが、相互理解というのは「お互いにお互いのことを知らない」という前提で、ではどうすれば理解できるのだろうか、というプロセスを重ねることが不可欠です。つまり、聴者の側の事情やなぜ理解できないのだろう、と考えることが聴覚障害者の側にも求められる、ということですね。次回はこの「どうしたら理解を得られるのだろうか」という切り口を考えてみたいと思います。