その日は突然やってきました。
21年前の1月末、それまでは何ともなかった右耳の中で、ダンプカーが轟々と音を立てて走り出しました。同時に、耳の中に大量の水が入ってきたような詰まり感──。
当時、私は都心の幹線道路沿いに建つマンションの7階に住んでいて、交通量に比例して騒音も多かったため、一瞬「何か大きな事故が起きたのか」と思い急いで周囲を見回しましたが、何も起こっていません。
自分の右耳の奥からこの音が聞こえてきているのだとわかったときの、愕然とした、信じられない、信じたくないような、え?なにこれ?──と、時間が止まったような感覚を今でもまざまざと思い出すことができます。
初めまして、ピノと申します。
私は難聴当事者として日々を送る中で、「聞こえる」と「聞こえない」の間にあるグラデーションのような世界と向き合ってきました。そんな日々を、ライターとして言葉にしていくことで、少しでも誰かの共感や気づきにつながっていけたらと願っております。よろしくお願いします。
その約一か月前、私は第一子の長男を助産院で出産しました。
年末に出産し、年始三日まで計五日間入院した朝、助産院側から「出産が立て込んでいるから部屋を空けてほしい」と言われました。
まだ早くない?と思いつつ、私自身も、全く清掃されない部屋や敷きっぱなしの布団の周りに散らばるほこりや髪の毛、テレビや雑誌もなく、当時はいわゆるガラケーで娯楽もなく、窓もない閉鎖された空間にほとほと嫌気がさしていたこともあり早々に退院しました。
とにかくなんだか無性に外出を味わいたくて、タクシーを手配しようとする助産師さんや主人の意見を強引に振り切り、徒歩10分ほどのわが家へと踏み出しました。 五日ぶりに味わった外気は本当に気持ちよく、前日に降った雪がまだたくさん残っていて、 吐く息は真っ白でしたが、空は青く澄み渡りとてもいいお天気でした。
小さな小さな長男は、主人の胸で真新しい抱っこ紐の中、気持ちよさそうにスヤスヤ寝ており、胸いっぱいでなんだか涙が出てきていました。
しかし、五分ほど歩くとさっきまでの多幸感は消え失せ、一歩歩くたびに呼吸が荒くなっていきます。 たまりかねて道路沿いの花壇のようなところに座り込みました。
その時、主人から
「顔色が真っ青だよ。大丈夫なの?ママに今倒れられたら(長男抱っこしてるから)受け止められないよ」
と言われて、
「ヤバい…やっぱりタクシーにすればよかった…」と激しい後悔とともに、 「しっかりしなければ!長男に何かあったら大変なことになる! 」
という思いが押し寄せ、主人の…確か片腕だけを借りて、なんとか我が家のリビングにたどり着いたときは、苦しさと安堵感と…さまざまな感情に翻弄され、また産後特有の情緒不安定にも後押しされ、とめどなく涙が出てきていたことを思い出します。
産前産後はとにかく感情がジェットコースター並みに激しく、忙しく…加えて初めての育児、心身ともに翻弄される日々でした。
思い起こせば、私は元々、テレビの前で悲しい場面などを見ると一人でワンワン大泣きするような感情の振れ幅が大きい子供でした。
母の生家が営んでいた海の家に親戚一同が集まるお盆などに、女ばかりの従姉妹たちの中で一人寂しそうに砂浜で波と戯れている兄を見つけて、一人涙ぐんでいたこともありました。 感受性豊かと言えばそうで、繊細と言えばそう、神経質も当てはまり、加えて意志が強いと言えば聞こえはいいけどそれは頑固ということで…
どれが長所でどれが短所なのか、本当に今でもわからないのですが、こんな性格も相まってなのか、後に難聴が進行しさらにメニエール病(めまい、それに伴う嘔吐、難聴、耳閉感、耳鳴りなどを伴う発作が繰り返し起こる耳の病気)も罹患することになったのかなと思ったりします。
右耳のダンプカーのような耳鳴りに、強烈な耳閉感。そのせいで音が聞こえにくく、まだ生後一か月の長男の泣き声が歪んだまま遠くで聞こえるような感覚。
耐え難い苦痛でしたが、その時はまだ“ワンオペ育児による睡眠不足と疲れのせい”だと思い病院には行きませんでした。
今でこそ突発性難聴という病気は、芸能人が罹患して公表してくれることで世間一般にも知られるようになりましたが、21年前の私は全く知りませんでした。
また当時は、いわゆるガラケーで今のように調べたいことをすぐにネット検索することはできませんでした。パソコンはありましたが、主人の仕事用のデスク型しかなく、加えて超アナログ人間だったため(今でもそうですが…^^;)調べることもせず、怒涛のように押し寄せてくる新生児育児にただただ毎日翻弄されていました。
そのため、早期治療が大切で、時間がたてばたつほど治りにくい病気だということも全く知らず、三週間ほど経過した頃、「さすがにこれはおかしい」となり長男を抱えて初めて耳鼻科へ行きました。
診断名は、突発性難聴。
漢字からなんとなくどんな病気なのかは想像はできましたが、その後の医師の言葉、
「二週間以上経過してるため、完治は難しいかもしれない」
「母乳育児は直ぐに止めて。ステロイドを飲まなきゃいけないから」
私が咄嗟に出た言葉は
「母乳育児はやめません」
でした。
もし今、タイムマシンがあるならば
私は即座に飛び乗り、過去の自分をひっぱたいてでも母乳育児を即座にやめさせ、すぐにステロイド治療をさせることでしょう。
しかし当然ながらタイムマシンはなくて
当時の私はとにかく自然な育児に傾倒していたため(助産院を選んだこともそうでした)、 母乳育児を止めるという選択肢はなく、若さによる妙な自信(30代始め)も後押しして、結局のところアデホスコーワというビタミン剤のみを服薬することになりました。
→中途難聴からのメニエール手記②に続く…
次回掲載予定日は10月1日(水)です。